窓辺の小さな四季ものがたり ~ハルと私のきらめきデイズ~
「んーっ!」
春霞のかかったような柔らかな日差しが、リビングの大きな窓からたっぷりと降り注ぐ。
私はマグカップを片手に大きく伸びをして、窓辺に置いたお気に入りのアームチェアに深く腰を下ろした。
フリーランスのグラフィックデザイナーという仕事は、締め切り前こそ少し慌ただしいけれど、基本的には自分のペースで進められる。
だからこうして、平日の午前中にのんびりとコーヒータイムを味わえるのは、ささやかな特権だ。
「ハル、おはよう」
足元にすり寄ってきた愛猫のハルに声をかける。
ハルは、私が30歳になった春に、近所の公園で段ボールに入れられていたところを保護したキジトラの男の子だ。
もう3年の付き合いになる。名前の由来はもちろん、春に出会ったから。
そして、私の心に温かな春を運んできてくれた、かけがえのない存在だから。
ハルは「にゃーん」と可愛らしく返事をすると、ひらりと身軽に窓辺のキャットタワーへ飛び乗った。
そこが彼の定位置。私のアームチェアのすぐ隣で、同じように窓の外を眺めるのが日課だ。
この春で、私は33歳になった。周りの友人たちは結婚したり、子供が生まれたりして、時々、ふと自分の生き方について考えることもある。
でも、この窓辺でハルと一緒に過ごす穏やかな時間は、何にも代えがたい宝物だと、心から思うのだ。
「見て、ハル。桜、だいぶ咲いてきたね」
窓の外には、大家さんが丹精込めて手入れしている庭が広がっている。
その庭の隅にある一本の桜の木が、ここ数日の暖かさで一気に花開いていた。
薄紅色の花びらが風に揺れるたび、甘い香りがふわりと漂ってくるようだ。
ハルは、私の言葉がわかったかのように、桜の木の方へ顔を向けた。そして、次の瞬間、彼の琥珀色の瞳が、何かに釘付けになった。
「!」
小さな黒い影が、ひらひらと桜の花の間を舞っている。
アゲハ蝶だ。ハルは、まるで初めて見る不思議な生き物に出会ったかのように、身じろぎもせず蝶の動きを追っている。
前足がむずむずと動き、時折、小さく「カカカッ」とクラッキングのような声を漏らすのがおかしい。
(あぁ、今年も春が来たんだなぁ)
ハルが蝶に夢中になっているその真剣な横顔を見つめながら、私は胸いっぱいに春の空気を吸い込んだ。
新しい季節の始まりは、いつも少しだけ心を弾ませてくれる。そ
れはきっと、この小さな同居人が、些細な日常の中にきらめく瞬間を教えてくれるからだろう。
春のうららかな陽気はあっという間に過ぎ去り、窓の外の景色は生命力あふれる緑色に染まっていった。
日差しは強さを増し、庭の木々は青々と葉を茂らせる。
「ハル、今日は暑くなりそうだねぇ」
朝一番、窓を開け放つと、むわりとした湿度の高い空気が流れ込んできた。
ハルはといえば、キャットタワーの最上段でだらーんと体を伸ばし、まるで液体にでもなったかのようにぐったりしている。
猫は暑さに強いというけれど、日本の夏は特別なのかもしれない。
そんなある日の午後。空が急に暗くなり、遠くでゴロゴロと低い音が響き始めた。
「お、夕立かな?」
私は開けっ放しにしていた窓を慌てて閉めた。
途端に、ザァーッとバケツをひっくり返したような激しい雨が窓ガラスを叩き始める。
雷鳴もだんだんと近くなり、ピカッ!と空が光ったかと思うと、バリバリバリーッ!と鼓膜を揺さぶる轟音が響き渡った。
「ひゃっ!」
思わず小さな悲鳴を上げてしまった私とは対照的に、ハルは意外な反応を見せた。
さっきまでのぐったりした様子はどこへやら、ピンと耳を立て、窓の外の嵐に全神経を集中させている。
雨音、風の音、雷の音。それらが織りなす自然のオーケストラに、彼はじっと聴き入っているようだった。
時折、雷光が走ると、その光に照らされた彼の瞳がきらりと輝く。その姿は、まるで小さな探検家のようだ。
(怖くないのかな?それとも、この迫力が面白いのかな?)
普段は掃除機の音にもビクッとするくせに、こういう時は妙に肝が据わっているのが、ハルの不思議なところだ。
私はそっとハルの背中を撫でた。温かくて、柔らかい毛並み。その手触りに、私の方がなんだか安心してしまう。
雨が上がり、空気がすっかり入れ替わった夕暮れ時。西の空には、見事な虹がかかっていた。
「ハル、見て!虹だよ、虹!」
ハルは私の声に促されるように窓の外を見たけれど、残念ながら虹にはあまり興味がないらしい。
それよりも、雨上がりの地面から立ち上る土の匂いや、活発に動き始めた虫たちの方に気を取られているようだった。
網戸に張り付いた小さな羽虫を、前足でちょいちょいとつついて遊んでいる。
(ま、それもハルらしいか)
クスッと笑みがこぼれた。同じ景色を見ていても、彼には彼の感じ方がある。それがまた、愛おしい。
夏が過ぎ、風が涼しくなると、窓辺の景色は少しずつ秋色に染まり始めた。
庭の桜の葉は赤や黄色に色づき、ハラハラと舞い落ちる。
ハルは、その落ち葉が風に吹かれてカサカサと音を立てるのを、興味深そうに目で追っていた。
時には、窓辺に舞い込んできた枯葉を捕まえようと、短い手足を一生懸命伸ばす姿が微笑ましい。
「ハル、それ食べられないよー」
私が言うと、ハルは「にゃ?」と首を傾げる。
その純粋な瞳に見つめられると、日々の仕事の疲れもどこかへ飛んでいってしまうから不思議だ。
秋の夜長には、虫の音が心地よく響く。ハルは窓辺でその音に耳を澄ませているのか、あるいは、ただ夜の闇を見つめているのか。
静かで穏やかな時間が、私とハルの間にゆっくりと流れていく。
この何でもない日常が、かけがえのない宝物なのだと、秋の深まりとともに実感するのだった。
そして、季節は冬へ。
ある朝、カーテンを開けると、世界は真っ白な雪に覆われていた。
「わぁ……!ハル、雪だよ!すごいね!」
東京でこんなに雪が積もるなんて、何年ぶりだろう。私は子供のようにはしゃいでしまった。
ハルは、初めて見る雪景色に少し戸惑っているようだった。
窓ガラスに鼻先をくっつけて、ふわふわと舞い降りる雪片を不思議そうに見つめている。
時折、冷たい窓ガラスに自分の鼻息で白い跡がつくのが面白いのか、何度もくんくんと匂いを嗅いでは、小さな舌でぺろりと舐めたりしていた。
(雪って、どんな味がすると思ってるのかな)
その無邪気な仕草に、心がほっこりと温かくなる。
外は凍えるような寒さだというのに、この部屋の中だけは、陽だまりのような温もりに満ちている。
それはきっと、ハルという小さな太陽が、私のそばにいてくれるから。
雪の日は、いつもより静かだ。雪が音を吸収してしまうのだろうか。
窓の外の銀世界を眺めながら、私は温かいココアを飲み、ハルは私の膝の上で丸くなって、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
時折、窓の外でカラスが鳴く声が聞こえると、ハルはピクリと耳を動かすけれど、すぐにまた安心しきったように寝息を立て始める。
(この子がいるから、毎日がこんなにも愛おしいんだな)
降り積もる雪のように、ハルへの愛情も、静かに、でも確実に、私の心の中に降り積もっていくのを感じていた。
雪が溶け、ふたたび春の足音が聞こえ始めた頃。
いつものように窓辺で日向ぼっこをしていたハルが、ふと小さな咳をした。
「ん?ハル、どうしたの?」
最初は気にも留めなかった。
猫だって、たまには咳くらいするだろう。でも、その咳は次の日も、その次の日も続いた。
食欲も少し落ちているようで、いつもなら「ごはん!」と催促してくるハルが、どこか元気がない。
胸騒ぎがして、すぐに動物病院へ連れて行った。
診察の結果は、「猫風邪」。
幸い、症状は軽く、獣医さんからは「暖かくして、栄養のあるものを食べさせてあげてください。すぐに良くなりますよ」と言われた。
ホッと胸を撫で下ろしたものの、やはり心配は尽きない。
家に帰ると、私はハルがいつも寝ているキャットタワーのベッドに、ふかふかの毛布をもう一枚足してやった。
そして、獣医さんに勧められた栄養価の高いウェットフードを、指先に乗せて少しずつ食べさせた。
「ハル、大丈夫だよ。すぐ元気になるからね」
声をかけると、ハルは弱々しく「にゃ…」と鳴いた。
その小さな声が、私の胸を締め付ける。いつも元気いっぱいのハルがしょんぼりしている姿を見るのは、こんなにも辛いものなのか。
ハルが体調を崩してから数日間、私は仕事の合間もずっとハルのそばに付き添っていた。
窓辺のアームチェアに座り、膝の上でハルを抱きながら、ただただ優しく背中を撫で続けた。
窓の外では、いつの間にか桜が満開になり、春爛漫の陽気が広がっている。
でも、私の心はハルのことでいっぱいで、美しい景色もどこか遠くに感じられた。
(早く元気になって、また一緒に窓の外を眺めようね)
そう願いながら、私はハルの小さな頭をそっと撫でた。
すると、ハルが私の手のひらにすり寄ってきて、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
それは、いつもよりずっと小さな音だったけれど、確かな生命力を感じさせる音だった。
(あぁ、この子は頑張っているんだ)
その小さな温もりが、私の不安を少しずつ溶かしてくれた。
幸い、ハルの回復は順調だった。
数日後にはすっかり食欲も戻り、咳も止まった。
まだ少し本調子ではないけれど、窓辺で日向ぼっこをする元気も出てきたようだ。
「ハル、もう大丈夫?」
私が声をかけると、ハルは「にゃーん!」と、いつもの元気な声で返事をした。
そして、おもむろに立ち上がると、窓の外を飛んでいたモンシロチョウに向かって、小さくジャンプした。
まだ少しおぼつかないジャンプだったけれど、その姿は紛れもなく、いつもの好奇心旺盛なハルだった。
(よかった……本当によかった)
思わず涙がこぼれた。
それは、安堵の涙であり、ハルへの愛しさが込み上げてきた涙でもあった。
この小さな命が、私にとってどれほど大きな存在なのかを、改めて思い知らされた数日間だった。
窓の外では、満開の桜が風に揺れている。
ハルは、その桜吹雪を目で追いながら、満足そうに伸びをしている。
その姿を見ているだけで、私の心も春の日差しのように温かくなっていくのを感じた。
病気を乗り越えたハルは、なんだか少しだけ大人びて見えた。
そして私も、この経験を通して、ハルとの絆がさらに深まったような気がした。
ハルがすっかり元気を取り戻し、季節は再び巡ってきた。
窓辺の桜は葉桜となり、力強い緑が目に眩しい初夏が訪れようとしている。
あの日、ハルの体調不良で胸を痛めたことが、まるで遠い昔のことのように感じる。
けれど、あの時の不安と、そして回復してくれた時の喜びは、私の心に深く刻まれている。
それは、ハルという存在が、私の日常にとっていかに大切で、かけがえのないものかを教えてくれた出来事だったから。
今日も、私は窓辺のアームチェアに座り、ハルは隣のキャットタワーで日向ぼっこをしている。
いつもの光景。でも、それは決して当たり前ではない、奇跡のような時間なのだと、今の私は知っている。
「ハル、今日は何が見える?」
私が話しかけると、ハルは「にゃ?」と首を傾げ、それから得意げに窓の外を指し示すように前足をちょいと上げた。
彼の視線の先には、庭の隅で小さな黄色い花が風に揺れていた。
名前も知らない、ささやかな花。
でも、ハルにとっては、それが今日の大きな発見なのだろう。
(そうだね、可愛いお花が咲いてるね)
私は微笑んで、ハルの頭をそっと撫でた。ふわふわの毛並みの感触が、心地よい。
30代、未婚。時々、漠然とした不安に襲われる夜もある。
でも、この窓辺でハルと一緒に過ごす時間は、そんな不安を優しく包み込み、溶かしてくれる。
彼が見つめる世界の小さくて愛おしいものたちを、私も一緒に見つめることで、日常はこんなにもきらめきに満ちているのだと気づかされる。
春の蝶、夏の雷雨、秋の落ち葉、冬の雪。そして、名も知らぬ小さな花。
ハルが教えてくれる季節の移ろいは、いつも新鮮で、私の心を豊かにしてくれる。
それはまるで、窓辺に置かれた万華鏡のように、くるくると表情を変えながら、美しい模様を見せてくれるのだ。
これからも、たくさんの季節を、ハルと一緒にこの窓辺で過ごしていくだろう。
時にはクスッと笑い、時にはほっこりと癒やされ、そして時には、今日のように胸が熱くなるような感動を味わいながら。
(ありがとう、ハル。私の小さな太陽)
心の中でそっと呟き、私はハルと一緒に、窓の外に広がる柔らかな初夏の光を見つめた。
それは、未来への希望を照らし出す、温かくて優しい光だった。
この小さな幸せが、これからもずっと続いていきますようにと、私は心から願った。