週末の黒猫(シャノワール)と私~39歳、心に灯る小さなぬくもり~

第一章:週末の出会いと小さな影

週末の黒猫(シャノワール)と私~39歳、心に灯る小さなぬくもり~

東京の喧騒が少しだけ遠のく週末。綾乃(あやの)、39歳。

外資系金融機関でバリバリとキャリアを積んできた彼女は、高層ビルの窓から見える景色のように、どこか遠くを見つめる時間が増えていた。

仕事は刺激的だし、チームにも恵まれている。けれど、ふとした瞬間に襲ってくるのだ。

「私の人生、このままでいいのかな?」という、形容しがたい虚無感が。

(何か、この手で触れられる温かいものを……)

そんな思いが募り、綾乃は数週間前から動物保護団体のボランティアに登録した。

幼い頃、実家で猫を飼っていた経験が、彼女の背中をそっと押したのだ。

「綾乃さん、おはようございます! 今日もよろしくお願いしますね」

ボランティア団体の代表を務める、柔和な笑顔が印象的な初老の女性、佐伯(さえき)さんが出迎えてくれた。

施設内には、様々な事情で保護された犬や猫たちが、それぞれの時間を過ごしている。

新しい家族を待つ子たちの、期待に満ちた瞳。その中で、綾乃の心を捉えて離さない存在がいた。

施設の隅っこにあるケージの、さらに奥。

そこに、小さな黒い影がいつもいる。シャドウと名付けられたその雄猫は、人間に対して極度の警戒心を抱えていた。

虐待された過去があるのかもしれない、と佐伯さんは静かに語っていた。

そのせいか、誰かがケージに近づくだけで、シャドウは全身の毛を逆立て、低い唸り声をあげる。

他の猫たちが愛嬌を振りまき、次々と新しい家族のもとへ旅立っていく中、シャドウだけはずっと、その暗い隅で小さくなっていた。

「シャドウちゃん、おはよう」

綾乃は他の猫たちの世話を終えると、必ずシャドウのケージの前にしゃがみ込む。無理に近づこうとはしない。

ただ、優しい声で語りかける。仕事であったこと、街で見かけた可愛い雑貨のこと、空の色のこと。シャドウは相変わらず、ケージの奥で綾乃を睨みつけている。時折、「シャーッ!」という威嚇の声が飛んでくる。

他のボランティアスタッフの中には、「あの子はもう無理よ」「時間がかかりすぎるわ」と諦め顔の人もいた。

でも、綾乃にはシャドウの瞳の奥に、ほんの僅かな怯えと、そして生きることへの渇望が見えるような気がしていた。

(大丈夫だよ、シャドウ。私はあなたを傷つけたりしない)

その思いだけを胸に、綾乃の週末の小さな挑戦は始まった。

第二章:根気と、ほんのり甘い香り

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平日は分刻みのスケジュールに追われる綾乃だが、週末のボランティアは彼女にとって、心をリセットする大切な時間となっていた。

そして、その中心にはいつもシャドウがいた。

「シャドウ、今日はね、駅前に新しいカフェができたの。猫型のクッキーがあるんだって。今度、写真見せてあげるね」

返ってくるのは、相変わらずの沈黙か、小さな威嚇。

それでも綾乃はめげなかった。まるで、難攻不落のクライアントにプレゼンするような粘り強さで、シャドウに語りかけ続ける。

ただ、そこにあるのはビジネスライクな計算ではなく、純粋な「仲良くなりたい」という温かい気持ちだけだった。

ある土曜日の午後、綾乃は秘密兵器を持参した。

猫用のおやつの中でも、特に匂いが芳醇な、ペースト状のトリーツだ。

「シャドウ、これ、美味しい匂いがするでしょう? ちょっとだけ、どうかな?」

細心の注意を払いながら、ケージの網越しに、ほんの少しだけ指先におやつを乗せて差し出す。

シャドウはピクリと鼻をひくつかせたが、やはり奥から出てこない。綾乃はため息をつく代わりに、にっこりと微笑んだ。

「そっか、まだだよね。いいよ、ここに置いておくね」

おやつを小さな皿に入れ、ケージの入り口近くにそっと置く。

そして、またいつものように、シャドウから少し離れた場所に座り、穏やかに話しかける。

そんな日々が数週間続いた。

他の猫たちが元気にじゃれ合う声を聞きながら、綾乃は文庫本を読んだり、シャドウに話しかけたりして過ごす。

周囲からは、「綾乃さん、本当にシャドウが好きねぇ」と、半ば呆れ、半ば感心したような声が聞こえてくることもあった。

(好き、なのかな。うーん、それよりも、放っておけない、というか……)

綾乃自身、この感情が何なのか、まだよく分からなかった。

ただ、あの小さく震える黒い影が、少しでも安心できる場所を見つけてほしい。その一心だった。

変化は、本当に些細なところから訪れた。

綾乃が話しかけている間、シャドウの耳がぴくぴくと動くようになったのだ。

以前は完全に無視、あるいは警戒の対象でしかなかった綾乃の声に、シャドウが意識を向けている。

それは、綾乃にとって、数百万の契約を取るよりもずっと心躍る瞬間だった。

「シャドウ、聞いてるの?」

嬉しくて、思わず声が弾む。

シャドウは相変わらずそっけない顔をしているが、綾乃には分かる。ほんの少しだけ、シャドウの世界に自分の声が届き始めていることを。

そして、運命の日曜日がやってきた。いつものように、綾乃はお気に入りのおやつを指先に乗せ、そっとケージに差し入れた。

「シャドウ、おはよ……」

言い終わらないうちに、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。

シャドウが、おそるおそる、本当にゆっくりと、ケージの奥から姿を現したのだ。

そして、震える小さな体で綾乃の指先に近づき、ペロリと、おやつを舐めた。

ザラリとした舌の感触が、綾乃の指先に伝わる。

ほんの一瞬。けれど、それは永遠にも感じられるほど、濃密な時間だった。

「……食べた」

綾乃の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

驚いたシャドウはサッと身を引いたが、すぐにまた、綾乃の指先のおやつを小さな舌で舐め始めた。

(ああ、神様……!)

綾乃は、声を上げて泣き出しそうになるのを必死でこらえた。

代わりに、胸いっぱいに広がる温かい感情を、ただただ噛み締めていた。

それは、仕事で大きな成果を上げた時の達成感とは全く違う、もっと柔らかくて、もっと深い喜びだった。

この日を境に、シャドウと綾乃の関係は、亀の歩みよりもゆっくりと、しかし確実に変わり始めた。

第三章:心のキャッチボールと小さな成長

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シャドウが綾乃の手からおやつを食べるようになってからも、すぐに心を全開にしたわけではなかった。

相変わらず警戒心は強く、少しでも大きな物音がすればビクッと体をこわばらせる。

それでも、綾乃がケージの前に座ると、以前よりも少しだけ手前に出てくるようになった。

そして、綾乃が持参する様々な種類のおやつを吟味するかのように、クンクンと匂いを嗅ぎ、気に入ったものだけを口にするようになった。

その選り好みする姿すら、綾乃には愛おしかった。

「シャドウ、今日はカツオ味だよ。これはどうかな?」

まるで、気難しい食通をもてなすシェフのような気分だ。

時々、差し出したおやつをプイと無視されることもある。

そんな時は、思わずクスッと笑ってしまう。

(手強いんだから、この子は)

シャドウとの関わりは、綾乃に多くのことを教えてくれた。

まずは、忍耐力。結果を急がず、相手のペースに合わせることの大切さ。そして、見返りを求めない愛情。

シャドウが懐いてくれなくても、ただそこにいて、少しでも穏やかな時間を過ごしてくれればいい。そう思えるようになっていた。

それは、綾乃自身の日常にも変化をもたらしていた。

以前は、仕事の成果や効率ばかりを気にしていたが、最近はプロセスそのものを楽しめるようになってきたのだ。部下の小さな成長や、クライアントとの何気ない会話の中に、新しい発見や喜びを見出せるようになった。

「綾乃さん、最近なんだか柔らかくなりましたね」

チームの後輩にそう言われた時は、少し照れくさかったが、悪い気はしなかった。

きっと、シャドウが綾乃の心の強張りを、少しずつ解きほぐしてくれているのだろう。

ボランティア活動を通じて、綾乃は他の保護猫たちの個性にも触れた。

甘えん坊の三毛猫、おっとりした茶トラ、遊び盛りのキジトラ。それぞれが愛らしく、かけがえのない存在だった。

シャドウだけに特別な感情を抱いているわけではない。

でも、やはりシャドウのことは、心のどこかでいつも気に掛けていた。

ある日、佐伯さんが綾乃にそっと声をかけた。

「綾乃さん、シャドウのことなんだけどね……もし、綾乃さんがその気なら、トライアルっていう形で、一度家に連れて帰ってみない?」

思いがけない提案だった。

綾乃はドキリとした。シャドウを引き取る。それは、考えたこともなかったわけではない。

でも、あの警戒心の強いシャドウが、見知らぬ環境で暮らせるだろうか。自分に、その責任が負えるだろうか。

「……少し、考えさせてください」

そう答えるのが精一杯だった。

その週末、綾乃はいつもより長くシャドウのケージの前にいた。

シャドウは、綾乃の指からおやつをもらうと、時折、その小さな頭を綾乃の指にこすりつけるような仕草を見せるようになっていた。

それは、ほんの一瞬の、ためらいがちな甘えだった。

(この子は、こんなにも愛情に飢えているんだ……)

綾乃の胸がギュッと締め付けられる。

仕事の達成感とは違う、もっと原始的で、もっと強い感情が込み上げてくる。

誰かの心の傷を癒すこと。

それは、なんて難しくて、そして、なんて尊いことなのだろう。

綾乃は、シャドウの黒曜石のような瞳をじっと見つめた。

その瞳の奥に、もう怯えだけではない、微かな信頼の色が見えた気がした。

第四章:未来への架け橋

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綾乃は、佐伯さんの提案をしばらくの間、胸の中で温めていた。

シャドウを引き取ることは、簡単な決断ではない。

仕事との両立、そして何よりも、シャドウが新しい環境に馴染めるかどうか。

週末、いつものようにシャドウのケージの前に座りながら、綾乃は静かに語りかけた。

「シャドウ、もし、君がよかったら……うちに来る?」

シャドウは、きょとんとした顔で綾乃を見上げた。

もちろん、言葉が通じるわけではない。それでも、綾乃の真剣な思いは、シャドウの心に何かを伝えたのかもしれない。

シャドウは、ゆっくりと綾乃の指先に近づき、そっと鼻を押し当てた。それは、まるで小さな肯定のように感じられた。

しかし、綾乃はすぐには結論を出さなかった。数日間、真剣に考えた。そして、ある答えに辿り着く。

(今、私がシャドウを引き取ることは、シャドウにとって本当に一番良いことなのだろうか……?)

綾乃のマンションはペット可だが、日中は仕事で家を空ける時間が長い。

シャドウはまだ完全に心を開いたわけではなく、新しい環境への適応には細心の注意と時間が必要だ。

そして何より、綾乃は気づいていた。

自分は、シャドウに「救われたい」と願うあまり、シャドウの気持ちを置き去りにしてしまっていたのかもしれない、と。

週末、綾乃は佐伯さんに自分の考えを伝えた。

「佐伯さん、シャドウのことですが……今はまだ、私が引き取るべきではないと思っています。あの子には、もっと時間をかけて、心から安心できる場所と、ずっと一緒にいられる家族を見つけてほしいんです」

佐伯さんは、綾乃の言葉を黙って聞いていたが、やがて深く頷いた。

「綾乃さんらしいわね。それが、シャドウにとっても、綾乃さんにとっても、一番良い道なのかもしれないわ」

綾乃は、シャドウとの出会いが、自分自身を見つめ直すきっかけになったことを感じていた。

仕事だけが自分の価値ではない。誰かのために何かをすること、見返りを求めずに愛情を注ぐこと。

その経験が、綾乃の心を豊かにし、人間としての深みを与えてくれていた。

「でも、これからもシャドウのサポートは続けさせてください。あの子がいつか、最高の家族と出会える日まで」

「ええ、もちろんよ。シャドウも、綾乃さんが来てくれるのを、きっと心待ちにしているわ」

その言葉に、綾乃は心の底から安堵した。

それからの綾乃は、変わらず週末になると保護施設へ通った。

シャドウは、まだ他の人には警戒心を見せるものの、綾乃に対しては、以前とは比べ物にならないほど心を開き始めていた。

綾乃がケージに近づくと、ゴロゴロと喉を鳴らし、時にはお腹を見せて甘えるような仕草も見せるようになったのだ。

その変化は、他のボランティアスタッフや佐伯さんをも驚かせた。

綾乃は、シャドウのその小さな進歩を、自分のことのように喜んだ。

そして、いつかシャドウがこの施設を卒業し、新しい家族のもとで幸せに暮らす日が来ることを、心から願っていた。

ボランティア活動とシャドウとの出会いは、綾乃の日常に、確かな意味と温かい光を与えてくれた。

仕事の合間に、シャドウの動画や写真を見ては頬を緩ませる。

それは、かつての彼女にはなかった、穏やかで満たされた時間だった。

人生は、仕事だけで成り立っているわけじゃない。

誰かと心を通わせ、誰かのために時間を使うこと。

その中にこそ、かけがえのない豊かさがあるのだと、綾乃は黒猫のシャドウから教わったのだった。

彼女の心の中には、もう虚無感が入り込む隙間はなかった。

代わりに、未来への優しい希望が、春の陽だまりのように広がっていた。

そして、いつか自分自身も、シャドウのように、誰かの心の拠り所になれるような、そんな温かい家庭を築きたい。

そんな新しい夢も、綾乃の胸にそっと芽生え始めていた。

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