雨上がりのアリア

第一章:灰色のメロディ

雨上がりのアリア

 

降り続く雨が、都会の景色をモノクロームの水彩画に変えていた。高層ビルの窓を叩く雨音は、まるで終わらないタスクリストのように、私の心を急かせていた。

私、城之内ユキ、34歳、独身。広告代理店でプランナーとして働き、それなりにキャリアを築いてきた。自分の力で手に入れた都心のマンション、好きなブランドの服、たまに行くお洒落なレストラン。傍から見れば、充実した「自立した女性」そのものだろう。

けれど、時折、ふっと心が空っぽになる瞬間があった。プレゼン資料の締め切りに追われ、深夜残業も厭わない。週末は溜まった家事を片付け、友人との予定を詰め込む。そうやってスケジュール帳を埋めていくことで、心の隙間から目を逸らしているのかもしれない。

その日も、重たい会議が終わったのは、もう街灯が滲んで見える時間だった。降りしきる雨の中、私は折り畳み傘を盾に、足早に家路を急いでいた。

「…ミャア」

か細い声が、私の足を止めた。声のした方を見ると、薄暗い路地裏のゴミ置き場の陰で、小さな黒い塊が震えていた。近づいてみると、それはずぶ濡れになった一匹の黒猫だった。泥に汚れ、片方の後ろ足を引きずるようにしている。痩せていて、大きな緑色の瞳だけが、暗闇の中で不安げに光っていた。

(どうしよう…)

一瞬、躊躇した。明日は朝一番でクライアントとの打ち合わせがある。猫なんて飼ったこともないし、世話をする時間も余裕もない。でも、雨に打たれ、傷ついて震える小さな命を、どうしても見過ごすことができなかった。

「大丈夫…?」

そっと手を差し伸べると、猫は「シャーッ!」と威嚇の声をあげ、後ずさった。その瞳には、人間への強い不信感が宿っているように見えた。

「怖くないよ。ちょっとだけ、雨宿りしていかない?」

私はコートを脱ぎ、優しく猫を包み込んだ。抵抗する力も残っていないのか、猫は私の腕の中で小さく丸まった。温かい、とは言えないけれど、確かな命の重みがそこにあった。タクシーを拾い、私はその小さな命を抱きしめて、自分の部屋へと向かった。

 

第二章:不協和音の始まり

 

部屋に着くと、まずは猫をそっとバスタオルで包み、段ボール箱に毛布を敷いて寝床を作った。幸い、近所に夜間も診てくれる動物病院がある。タクシーで駆け込み、診察してもらうと、後ろ足は軽い捻挫、そして栄養失調と脱水症状を起こしているとのことだった。幸い、大きな怪我や病気ではなかったことに、私は心の底から安堵した。

家に連れ帰り、獣医さんの指示通り、猫用のミルクとウェットフードを与えた。最初は警戒して口をつけようとしなかったけれど、空腹には勝てなかったのだろう。おずおずと顔を近づけ、夢中で食べ始めた。

その夜から、私と黒猫の奇妙な同居生活が始まった。私はその猫に、夜に出会ったことから「ナイト」と名付けた。

ナイトは、とにかく警戒心が強かった。私が近づくと、すぐにソファの下やカーテンの裏に隠れてしまう。無理に触ろうとすると、鋭い爪を立てて威嚇する。ご飯とトイレの時以外は、ほとんど姿を見せようとしなかった。

(野良だったのかな…人間に、何か酷いことをされたのかもしれない)

そう思うと、胸がチクリと痛んだ。

仕事から疲れて帰ってきても、部屋には静寂と、そして私を警戒する小さな存在がいるだけ。正直、少しだけ後悔の念がよぎることもあった。「私なんかが、本当にこの子を幸せにしてあげられるんだろうか」と。

それでも、私は毎日、欠かさずご飯を用意し、トイレを掃除し、そっと声をかけ続けた。「ナイト、おはよう」「ただいま」「今日はいい天気だよ」。返事はなくても、ナイトが部屋のどこかで私の声を聞いていることだけは確かだった。

変化は、本当に少しずつ訪れた。私がソファで本を読んでいると、ナイトがソファの下からそっと顔を出すようになった。私が寝静まった頃、こっそりベッドの足元で丸まっていることもあった。まだ距離はあったけれど、確実に、ナイトの中の固い氷が、ゆっくりと溶け始めているのを感じた。

ある週末の午後、私はリビングの窓辺で、読みかけの小説を開いていた。ふと視線を感じて顔を上げると、ナイトが少し離れた場所で、じっと私を見ていた。緑色の大きな瞳が、何かを問いかけているように見える。

「どうしたの、ナイト?」

優しく声をかけると、ナイトはゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。そして、私の足元に体をすり寄せ、か細い声で「…ニャァ」と鳴いた。それは、威嚇でも要求でもない、初めて聞く、甘えるような声だった。

驚きと喜びで、私の心臓が大きく跳ねた。そっと手を伸ばすと、今度は逃げずに、ナイトは気持ちよさそうに目を細めた。柔らかくて温かい毛並みの感触が、私の指先に伝わってくる。ゴロゴロと喉を鳴らす、低い振動が心地いい。

その瞬間、張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ気がした。仕事のプレッシャーも、将来への漠然とした不安も、その温もりの中で溶けていくようだった。

 

第三章:新しいハーモニー

雨上がりのアリア

 

ナイトが心を開いてくれてから、私たちの関係は急速に深まっていった。私が家に帰ると、玄関まで出迎えてくれるようになった。足元にまとわりつき、早く撫でてと催促する。私がソファに座れば、当たり前のように膝の上に飛び乗ってきて、満足そうに喉を鳴らす。

ナイトの存在は、私の日常に彩りを与えてくれた。朝、顔を洗っていると、洗面台の縁に乗ってきて、じっと私の顔を見つめる。夜、パソコンに向かっていると、キーボードの上にわざと寝そべって邪魔をする。そんなナイトのイタズラさえ、愛おしくてたまらなかった。

不思議なことに、ナイトとの生活が始まってから、私の心にも変化が訪れていた。あれほど仕事に没頭し、休日も予定を詰め込むことで安心感を得ていた私が、家にいる時間を大切にするようになったのだ。

ナイトと一緒に窓辺で日向ぼっこをしたり、おもちゃで遊んだり、ただ静かにナイトが眠る姿を眺めているだけで、心が満たされていくのを感じた。時間に追われるのではなく、ゆったりとした時間の中に身を置く心地よさを知った。

それは、仕事への向き合い方にも影響を与えた。以前は、完璧を求め、常にプレッシャーを感じていたけれど、少し肩の力を抜けるようになった。「まあ、いっか」と思える心の余裕が生まれたのだ。それは決して諦めではなく、自分を追い詰めすぎない、しなやかな強さだった。

同僚からも「最近、雰囲気が柔らかくなったね」と言われるようになった。以前は、どこか近寄りがたいオーラがあったらしい。自分では気づかなかったけれど、常に気を張り、鎧をまとっていたのかもしれない。

ある日、会社の先輩で、よき相談相手でもあるミカさんにランチに誘われた。
「ユキ、最近すごくいい顔してる。何かあった?」
ミカさんのストレートな言葉に、私は少し照れながらナイトの話をした。雨の夜の出会い、警戒心の強かったこと、そして今ではすっかり甘えん坊になったこと。

「そっか、猫かぁ。わかる気がするな。動物って、理屈抜きで心を癒してくれるもんね。ユキ、ずっと頑張りすぎてたから。ナイトくんが、ユキの心にちょうどいい『休み時間』をくれたのかもね」

ミカさんの言葉は、すとんと腑に落ちた。そうだ、私はずっと走り続けていた。立ち止まることも、誰かに甘えることも、弱い自分を見せることも、どこかで恐れていたのかもしれない。

ナイトは、ただそこにいてくれるだけで、私の鎧を少しずつ剥がしていってくれた。言葉はなくても、その温もりと無垢な瞳が、「そのままでいいんだよ」と語りかけてくれているようだった。

 

第四章:ナイトの視点 ~僕が見つけた光~

 

僕の名前はナイト。人間はそう呼ぶ。

雨の夜、お腹が空いて、足が痛くて、寒くて、もうダメだと思った。人間は怖かった。石を投げられたり、追い払われたりした記憶しかない。だから、あの女の人が近づいてきた時も、精一杯威嚇したんだ。

でも、その女の人は、僕を優しく包んで、温かい場所に連れて行ってくれた。美味しいご飯と、ふかふかの寝床もくれた。それでも、すぐには信用できなかった。人間なんて、いつ裏切るかわからない。だから、ずっと隠れて様子をうかがっていた。

あの女の人…ユキは、毎日僕に話しかけてきた。「おはよう」「ただいま」「いい子だね」。僕が隠れていても、知らんぷりせず、いつも優しい声だった。ご飯も、僕が食べやすいように、そっと置いてくれる。無理に触ろうともしない。

少しずつ、少しずつ、ユキのそばが安全な場所だってわかってきた。ユキが帰ってくると、なんだかホッとする自分がいた。ユキがソファで本を読んでいる時、その近くにいると、心が落ち着いた。

ある日、思い切って近づいてみた。ユキの足元に、体をすり寄せてみた。ドキドキしたけど、ユキは驚いた顔をした後、すごく嬉しそうに笑って、僕の頭を撫でてくれた。その手が、すごく温かくて、気持ちよくて、僕は思わずゴロゴロと喉を鳴らしてしまった。

それから、僕はユキのそばにいるのが大好きになった。ユキの膝の上は、世界で一番安心できる場所だ。ユキが撫でてくれると、昔の怖い記憶なんて、どこかに消えてしまうみたいだ。

ユキは、僕が来る前と少し変わった気がする。前は、いつもピリピリして、難しい顔をしていることが多かった。でも最近は、よく笑うようになった。僕と一緒にいる時、すごく優しい顔をするんだ。

僕がユキの心を少しでも温かくできているなら、嬉しいな。だって、ユキは僕に、温かい寝床と美味しいご飯だけじゃなくて、「安心」という光をくれたんだから。

 

第五章:雨上がりのアリア

雨上がりのアリア

季節は巡り、あの雨の夜から一年が経とうとしていた。私の部屋には、すっかり我が顔でくつろぐナイトの姿がある。艶やかな黒い毛並みは陽の光を浴びて輝き、緑色の瞳は好奇心と信頼に満ちている。

私は今、窓辺に座り、膝の上で眠るナイトの温もりを感じながら、穏やかな午後を過ごしている。かつて仕事の資料で埋まっていたローテーブルの上には、ナイトのお気に入りの毛玉ボールと、読みかけの小説が置かれている。

キャリアを諦めたわけじゃない。仕事への情熱だって失っていない。けれど、今の私には、それだけが全てではないと知っている。家に帰れば、愛しい存在が待っていてくれる。ただそばにいて、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれるだけで、心が満たされる。そんな小さな幸せが、私の毎日を支えてくれている。

人間関係も少し変わった。以前は、どこか壁を作ってしまいがちだったけれど、今はもっと自然体で人と接することができるようになった。弱さを見せることを恐れなくなったからかもしれない。ナイトが、ありのままの私を受け入れてくれたように、私ももっと、周りの人や自分自身を、優しく受け入れられるようになった気がする。

先日、実家の母から電話があった。「最近、声が明るくなったんじゃない?何かいいことあった?」と聞かれ、私は笑ってナイトの話をした。最初は驚いていた母も、「そう、あなたが幸せなら、それが一番よ」と嬉しそうだった。

窓の外を見ると、さっきまで降っていた雨が上がり、柔らかな日差しが街を照らし始めている。濡れたアスファルトがキラキラと輝き、空気は澄み渡っている。

ナイトが小さく身じろぎし、私の顔を見上げて「ニャァ」と鳴いた。まるで、「いい天気だね」と言っているようだ。

「そうだね、ナイト。雨上がりは気持ちがいいね」

私はナイトの頭を優しく撫でた。ゴロゴロという心地よい振動が、私の心に静かに響き渡る。それはまるで、新しい始まりを告げる、優しいアリアのようだった。

空っぽだと思っていた私の心には、いつの間にか、温かくて確かなものが満ちていた。それは、名声や成功とは違う、もっと穏やかで、もっと強い光。ナイトが教えてくれた、ありのままの自分を愛し、日々の小さな幸せを大切にする心。

私たちは、完璧じゃなくていい。傷つくことがあっても、迷うことがあっても、また前を向ける。この都会の片隅で、私は一匹の猫と共に、しなやかに、そして確かに、自分の人生を歩んでいく。雨上がりの空の下で、希望に満ちた新しいメロディを奏でながら。

雨上がりのアリア
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