アキの視点
古い柱時計が、ちくたくと穏やかなリズムを刻んでいる。午後の日差しが、窓から差し込み、埃をきらきらと照らし出す。私の営む小さな古書店「月影堂」は、今日も静かだ。カウンターの隅、日当たりの良い特等席では、愛猫のベルが丸くなっている。艶やかなブルーグレーの毛並み、カッパー色の大きな瞳。ブリティッシュショートヘアの彼女は、まるで上質なベルベットのクッションのようだ。
「ベル、今日も平和だね」
話しかけても、ベルは小さく欠伸をするだけ。でも、その存在が私の心をどれだけ満たしてくれているか、言葉にするのは難しい。三十歳を過ぎ、未だ独り身。友人たちは家庭を持ち、それぞれの道を歩んでいる。焦りがないと言えば嘘になるけれど、この古書店と、ベルとの静かな日々が、今の私には何より大切だった。
本棚に囲まれたこの空間は、私にとって聖域だ。古い紙の匂い、インクの香り。物語の世界に浸れば、現実の悩みも少しだけ遠のく気がする。それでも、心の奥底には、誰にも打ち明けられない願いが澱のように溜まっている。それは、もう何年も前に諦めたはずの、淡い夢。時折、その願いが胸を締め付け、息苦しくなる。そんな時、ベルはそっと私の足元にすり寄り、喉を鳴らすのだ。まるで、「大丈夫だよ」と言ってくれているかのように。
この子には、何か特別な力があるのかもしれない。そう思うことが、時々ある。私が落ち込んでいると、必ずそばに来てくれる。嬉しいことがあると、一緒に窓辺で日向ぼっこをしてくれる。ただの猫の気まぐれ、と言われればそれまでだけど、私にはベルが私の心を読んでいるように思えてならないのだ。そして、その秘密めいた繋がりが、私の孤独をそっと癒してくれる。
誰にも言えない願い。それは、絵本作家になること。幼い頃から絵を描くのが好きで、物語を紡ぐのが好きだった。でも、才能がないと諦めて、いつしか現実的な道を選んでしまった。この古書店だって、本が好きだから始めたけれど、どこか夢から逃げるための隠れ蓑のような気がしていた。心の奥底では、まだ自分の物語を、自分の絵で表現したいと願っている。そんな叶わぬ夢を、ベルだけは知っているような気がした。
ベルの視点
アキの心の声が、さざ波のように聞こえてくる。『今日も静かね…』『ベル、あったかい…』そして、時折聞こえる切ない響き。『まだ、描きたい…』。アキの願いは、私には痛いほど伝わってくる。人間は、どうしてこんなに複雑な想いを抱えて生きるのだろう。私なら、美味しいごはんとお昼寝と、アキの撫でる手があれば、それで十分なのに。
私は、ただの猫ではない。いつからか、人間の言葉が、特にアキの心の声が聞こえるようになった。そして、ほんの少しだけ、不思議な力を使うことができる。例えば、アキが探している本を棚から落としてみたり、気持ちが沈んでいる時に、窓の外に綺麗な蝶を呼んでみたり。大した力じゃない。世界の法則をほんの少しだけ、猫の手でつつくようなものだ。
アキは優しい。内気で、少し臆病だけど、本の埃を丁寧に払い、一冊一冊を大切にする。その指先から伝わる愛情が、私には心地よい。だから、アキの願いが叶えばいいと、いつも思っている。でも、私にできることは限られている。アキ自身が一歩を踏み出さなければ、何も変わらないのだから。
今日は、少し違う気配がする。店の外から、迷子の小鳥のような、か細い気配が近づいてくる。ちりん、とドアベルが鳴った。
アキの視点
ドアベルの音に、顔を上げる。入ってきたのは、私と同じくらいの年齢だろうか、少し疲れた表情の女性だった。どこか所在なさげに店内を見回し、やがて、ためらうように私に近づいてきた。
「あの…何か、心が軽くなるような本、ありませんか?」
思いがけない問いかけに、少し戸惑う。「心が軽くなる、ですか…」漠然としたリクエストだ。どんなジャンルがお好みか、どんな悩みをお持ちなのか、尋ねるべきなのだろう。でも、内気な私は、なかなか言葉が出てこない。
私が言葉を探していると、カウンターの隅で眠っていたはずのベルが、すっくと立ち上がった。そして、やおら棚の方へ歩いていくと、一冊の絵本の前でぴたりと止まった。古い、少し色褪せた絵本だ。猫が旅をする、素朴なストーリー。ベルは、その絵本の背表紙に、軽く鼻先を押し付けた。
「あ…」
私は思わず声を上げた。その絵本は、私が幼い頃に何度も読み返し、ボロボロになるまで大切にしていたものだった。絵本作家になりたい、と夢見るきっかけになった一冊。まさか、ベルがこの本を選ぶなんて。
女性は、ベルの行動に気づき、興味深そうにその絵本を手に取った。「あら、可愛い猫さん。この本、おすすめなの?」
「え、ええ…とても、温かいお話ですよ」私は少しどもりながら答えた。
女性は、ぱらぱらとページをめくり、ふっと優しい表情になった。「なんだか、懐かしい感じがします。これ、いただきます」
彼女は絵本を買い、少しだけ晴れやかな顔で店を出ていった。まるで、ベルが彼女の心を読んだかのように、ぴったりの一冊を選んだ。偶然だろうか?いや、偶然にしては出来すぎている。私はベルを見つめた。ベルは、何事もなかったかのように、また元の場所で丸くなり、満足げに喉を鳴らしていた。
ベルの視点
ふう、うまくいった。あのお客さん、心が灰色に曇っていた。迷子の小鳥みたいに、どこへ飛んでいけばいいのか分からないでいた。だから、アキが昔、何度も何度も読んでいた、あの絵本を教えてあげたんだ。あの絵本には、アキのキラキラした夢が詰まっている。きっと、あのお客さんの心にも、小さな灯りをともしてくれるはずだ。
アキが、不思議そうな顔で私を見ている。気づいたかな?まあ、いいか。アキが少しでも元気になれば、それでいい。アキの夢が、少しずつ動き出すといいな。私にできるのは、ほんの少し、背中を押すことだけだけど。
アキの視点
あの日以来、不思議なことが続いた。仕事で悩んでいるらしい男性が来店した時、ベルは彼の足元にすり寄り、まるで励ますように小さな声で鳴いた。彼は驚いていたけれど、帰る時には少し笑顔になっていた。恋に悩む若い女性が来た時には、ベルは恋愛小説が並ぶ棚の前で、じっと座っていた。
ベルは、訪れる人々の心の声を聞いているのかもしれない。そして、その人に必要な何かを、そっと示唆しているのかもしれない。そんなファンタジックな考えが、私の頭をよぎる。馬鹿げている、と打ち消そうとしても、ベルの賢く、全てを見透かすような瞳を見ると、信じたくなってしまう。
そして、気づいた。ベルは、私に対しても同じことをしてくれているのではないか、と。私が落ち込んでいる時に寄り添ってくれるのも、私が心の奥底で「描きたい」と願う時、画集や絵本が並ぶ棚の方をじっと見つめているのも…。
ベルは、私の秘密の願いを知っていて、ずっと応援してくれていたのかもしれない。
その事実に気づいた時、胸の奥がじんわりと温かくなった。独りだと思っていたけれど、すぐそばに、こんなにも心強い味方がいてくれたのだ。
ベルの視点
アキの心の揺らぎが、少しずつ形を変えていくのがわかる。『ベルは、知ってるの?』『私、まだ…』。そうだ、アキ。私は知っているよ。そして、ずっと待っている。アキが、自分の翼を広げるのを。
人間は、自分で扉を開けなければならない。私は、その扉の場所を教えることしかできない。でも、アキならきっとできる。だって、アキの心の中には、あんなにも温かくて、キラキラした物語が眠っているのだから。
アキの視点
ある雨の日の午後。店には私とベルだけ。外の雨音を聞きながら、私は古いスケッチブックを開いた。何年も触れていなかった、埃をかぶったスケッチブック。そこには、描きかけの猫の絵があった。ブルーグレーの毛並み、カッパー色の瞳…ベルによく似た猫。
鉛筆を握る。指が、少し震える。でも、今なら描けるかもしれない。ベルがそばにいてくれる。私の秘密を知り、静かに見守ってくれる存在がいる。
私は、ゆっくりと線を引いた。古書店の片隅で、猫が見守る中、止まっていた時間が、再び動き出すような気がした。ベルは、私の膝の上で、満足そうに喉を鳴らしている。そのゴロゴロという音が、まるで優しい応援歌のように聞こえた。
まだ、夢が叶うかどうかは分からない。絵本作家になれる保証なんてどこにもない。でも、もう一度、自分の心に正直になってみようと思った。ベルという、不思議で愛おしい存在が、私の背中をそっと押してくれたのだから。
窓の外では、雨が上がり始めていた。雲の切れ間から、柔らかな光が差し込み、古書店の床に明るい模様を描き出す。その光の中で、ベルの瞳が一層深く輝いて見えた。
「ありがとう、ベル」
小さな声で呟くと、ベルは私の顔を見上げ、ゆっくりと瞬きをした。それは、まるで「どういたしまして」と言っているかのようだった。
私とベルの秘密の時間は、これからも続いていく。この静かな古書店で、たくさんの物語と共に。そして、いつか私の物語も、誰かの心をそっと照らす灯りになるかもしれない。そんな希望を胸に、私は再び鉛筆を動かした。隣には、世界で一番賢くて、優しい、私の猫がいるのだから。