吾輩はクロ。しなやかな黒い毛並みを持つ、誇り高きオス猫である。縄張りはこの古い一軒家。そして、同居人はハルという人間だ。彼女は絵描きで、今年で三十と三つになるらしいが、吾輩にはよく分からない。ただ、彼女が吾輩をとても大切にしてくれていること、そして時々、ひどく寂しそうな目をすることは知っている。
ハルの朝は、窓から差し込む柔らかい光と共に始まる。吾輩はたいてい、彼女のベッドの足元、特等席で丸くなっている。ハルが身じろぎする気配で薄目を開けると、彼女はまだ夢の中にいるようだ。寝息は穏やかだが、眉間にはうっすらと皺が寄っている。最近、彼女はこの表情をすることが増えた。
「ん……クロ、おはよ」
掠れた声で吾輩の名を呼び、ゆっくりと手を伸ばしてくる。その手に頭を擦り付けるのが、吾輩の朝の挨拶だ。ゴロゴロと喉を鳴らしてやると、ハルの眉間の皺が少しだけ和らぐ。それを見るのが、吾輩は結構好きなのだ。
ハルはコーヒーを淹れ、アトリエ兼用のリビングへ向かう。古い木の床がきしむ音、コーヒーの香り、そして画布に向かうハルの真剣な横顔。それが吾輩の日常風景だ。吾輩は窓辺のクッションに陣取り、外を眺めたり、ハルの様子を観察したりして過ごす。
最近のハルは、どうも調子が悪いらしい。大きな画布を前に、腕を組んで唸っている時間が増えた。パレットの上で色を混ぜてはみるものの、すぐに筆を置き、深いため息をつく。いわゆる「スランプ」というやつだろう。人間というのは、時々こういう面倒な状態に陥るらしい。
そんな時、吾輩はそっと彼女の足元に寄り添う。温かい液体のような体で、彼女の足首にすりつく。ハルは「ああ、クロ…」と力なく呟き、吾輩の背中を撫でる。その手つきはいつもより少し頼りない。吾輩はただ、静かにゴロゴロと喉を鳴らす。難しいことは分からないが、吾輩のこの振動が、少しでも彼女の心を解きほぐせればいいと思う。
ある日の午後、吾輩が窓辺でうたた寝をしていると、庭の隅に見慣れない気配を感じた。薄目を開けると、茶色と白のぶち模様の猫が、用心深く辺りを窺っている。新顔だ。吾輩の縄張りに無断で侵入するとは、なかなか度胸のあるやつ。
「シャーッ!」
威嚇の声を上げると、ぶち猫はびくりと体を震わせ、慌てて塀の向こうへ姿を消した。ふん、吾輩のテリトリーの平和は、吾輩が守らねばならぬ。だが、あの猫、どこか寂しそうな目をしていた気がする。もしかしたら、腹を空かせているのかもしれない。
その日の夕方、事件は起こった。ハルがアトリエで何かを探して、家中を歩き回っているのだ。
「ない…どこにもない…おかしいわね…」
彼女の声は不安げに震えている。普段は落ち着いているハルが、こんなに狼狽えるのは珍しい。床に膝をつき、棚の下や家具の隙間を覗き込んでいる。吾輩はその様子を、ソファの上からじっと見守っていた。彼女が探しているのは、どうやら銀色の小さなペンダントのようだ。時々、ハルがそれを指で弄りながら、遠い目をして物思いに耽っているのを見たことがある。きっと、大切なものなのだろう。
「クロ、知らない?銀色の、月の形したペンダント…」
吾輩に話しかけられても、困る。吾輩は猫だ。人間の言葉は分からないし、ペンダントがどんなものかも詳しくは知らない。ただ、ハルの悲しそうな顔は見たくなかった。
彼女が諦めてソファに座り込んだ時、吾輩はふと、あることを思い出した。数日前、ハルがアトリエで作業をしている時、床に落ちてキラリと光るものを、前足でちょいちょいと弄んで遊んだ記憶がある。それは小さくて、ひんやりとしていて、面白い形をしていた。飽きてからは、確か、いつものお気に入りの場所…アトリエの隅にある、古い籐の籠の中に転がし入れたはずだ。あの籠の中は、吾輩の秘密基地。毛糸玉や、ハルが落としたらしいペンのキャップなんかが隠してある。
吾輩はソファから飛び降り、アトリエの隅の籐籠に向かって歩き出した。そして、籠の前で座り込み、ハルに向かって「ニャア」と鳴いてみせる。
ハルは最初、怪訝な顔をしていたが、吾輩がしきりに籠を気にしている様子を見て、はっとしたように立ち上がった。
「もしかして…クロ?」
彼女は恐る恐る籠の中に手を入れ、ガサゴソと中を探る。そして、
「あった!ああ、よかった…!」
彼女の手の中に、あの銀色の月のペンダントが握られていた。ハルはそれを胸に抱きしめ、深く安堵のため息をついた。
「ありがとう、クロ。あなたが見つけてくれたのね。もう失くしたかと思った…」
ハルは吾輩を抱き上げ、何度も頬ずりをしてくれた。彼女の腕の中は温かくて、安心する匂いがする。ゴロゴロと喉を鳴らしながら、吾輩は少しだけ得意な気持ちになった。どうだ、吾輩だって、ちゃんと役に立つのだ。
ペンダントが見つかったことで、ハルの心にも少し余裕が生まれたらしい。翌日、彼女は久しぶりに穏やかな表情で画布に向かっていた。そして、驚いたことに、彼女が描き始めたのは、吾輩の姿だった。窓辺で丸くなる吾輩、毛繕いをする吾輩、あくびをする吾輩。様々なポーズの吾輩が、画布の上に次々と現れていく。
「クロがいると、なんだか描ける気がするのよね」
ハルはそう言って、柔らかく微笑んだ。その笑顔は、最近見た中で一番、輝いていた。
数日後、吾輩はまた窓辺で外を眺めていた。すると、あの茶白のぶち猫が、また庭の隅に現れた。だが、今度は以前のような警戒心はなく、どこか期待するような目でこちらを見ている。
ハルは、その猫の存在に気づくと、静かに立ち上がり、キッチンへ向かった。そして、小皿にキャットフードを少しだけ入れて、庭の隅にそっと置いたのだ。
「お食べ。お腹、空いてるんでしょ?」
ぶち猫は一瞬ためらったが、やがておずおずと近づき、夢中で食べ始めた。ハルはそれを、優しい目で見守っている。
吾輩は、少しだけ嫉妬しないでもなかったが、ハルの満足そうな顔を見ると、まあ、いいかという気持ちになった。それに、あのぶち猫も、これで少しは寂しさが紛れるだろう。
ハルは絵を完成させた。それは、陽だまりの中で眠る吾輩を描いた、温かくて優しい絵だった。彼女はこの絵を、小さな個展に出すのだという。
「クロのおかげよ。ありがとう」
彼女はまた吾輩を抱きしめて言った。吾輩は、ただゴロゴロと喉を鳴らす。言葉は通じなくても、心はちゃんと繋がっている。吾輩がここにいること、それがハルにとって、何よりの慰めであり、インスピレーションなのだとしたら、猫冥利に尽きるというものだ。
今日も、吾輩はハルの隣で、穏やかな時間を過ごす。窓の外では、時々、あのぶち猫が顔を見せるようになった。ハルは相変わらず絵を描き、時々ため息をつき、そして吾輩に癒しを求める。それでいいのだ。この家には、吾輩とハルと、そしてささやかな日常の幸せがある。吾輩は、この温かい場所と、ちょっと不器用で優しい同居人が、結構気に入っているのだから。
ニャア、とひとつ鳴いて、吾輩は再び、ハルの膝の上で微睡み始める。外はすっかり暗くなり、部屋にはランプの暖かな光が満ちている。今日も一日、平和だった。明日もきっと、こんな日が続くだろう。そう思いながら、吾輩は心地よい眠りへと落ちていった。