雨の音が窓を叩く、憂鬱な水曜日の帰り道。都内のIT企業で働く32歳の未婚女性、小鳥遊(たかなし)優は、いつものようにイヤホンで音楽を聴きながら、少し重い足取りで家路を急いでいた。動物好きの優しい優にとって、雨の日は外で心細くしている小さな生き物たちのことが、いつも以上に気にかかるのだった。
ふと、薄暗い路地の奥から、か細い鳴き声が聞こえた気がした。最初は気のせいかと思ったけれど、足音を止めて耳を澄ますと、確かにそれは小さな動物の鳴き声だった。「まさか…」胸騒ぎを覚え、優はそっと路地の奥へと足を踏み入れた。
雨水が溜まった側溝のそばで、小さな塊が震えている。近づいてみると、それは全身ずぶ濡れになった、生まれたばかりと思われる小さな子猫だった。目はほとんど開いておらず、か細い声で助けを求めている。そのあまりの弱々しさに、優の胸は締め付けられた。「こんなところに一人で…!」
咄嗟に、優は自分のバッグからハンカチを取り出し、震える子猫をそっと包み込んだ。まだ体温も低い。「このままじゃ…」考えるよりも先に、優は子猫を抱き上げ、小走りで自宅へと向かった。
マンションに着くと、優は急いでタオルで子猫の体を優しく拭き、ドライヤーの弱風で気をつけて乾かした。小さな体はまだ頼りなく、優の手にすっぽりと収まるほどだ。温めたミルクをスポイトで少しずつ与えると、子猫は小さな舌で一生懸命に飲み始めた。その姿を見て、優の心はじんわりと温かくなった。「よかった…生きてる」
翌日、優は会社に事情を話し、午前休をもらって子猫を動物病院へ連れて行った。獣医さんの診断によると、子猫は生後2週間ほどで、幸いなことに目立った怪我や病気はないとのことだった。「よく見つけてあげましたね。このまま放置されていたら、危なかったでしょう」という獣医さんの言葉に、優は安堵の息をついた。
家に帰ってからも、優は子猫の世話に明け暮れた。まだ小さすぎるため、数時間おきのミルクやり、排泄の介助、そして何よりも温かい眼差しで見守ることが大切だった。子猫は日に日に元気を取り戻し、小さな声で鳴いたり、よちよちと歩き回るようになった。優は、その愛らしい姿にすっかり心を奪われていた。
子猫には、「雨上がり」にちなんで「アメ」と名付けた。アメは優の愛情を一身に受け、すくすくと成長していった。最初は手のひらサイズだった体も、気がつけば優の足元をちょこまかと走り回るほどになった。ふわふわの毛並み、クリクリとした大きな瞳、そして優に甘える時の喉のゴロゴロという音は、優にとって何よりも癒しだった。
優のマンションはペット不可だったが、管理会社に事情を説明し、アメの写真を見せながら懇願したところ、特別に許可を得ることができた。アメの可愛らしさは、管理人さんや近所の住人たちの心も掴んでいたのだ。
週末になると、優はアメを連れて近くの公園へ散歩に出かけるのが日課になった。アメは草の上をジャンプするように走り回り、優はそんなアメを優しい笑顔で見守る。時には、他の犬の散歩に来ている人たちと立ち話をし、アメの可愛さを自慢することもあった。
アメとの生活は、優の日常に彩りを与えてくれた。一人で過ごす静かな夜も、アメがそばにいてくれるだけで温かい空気に包まれた。仕事で疲れて帰ってきても、玄関で尻尾を振って出迎えてくれるアメの姿を見ると、疲れも吹き飛んでしまうようだった。
もちろん、子育てならぬ「猫育て」は、楽しいことばかりではなかった。夜中に起こされたり、大切な物を引っ掻かれたりすることもある。それでも、アメが優の膝の上で安心して眠る姿を見ると、そんな苦労も全て忘れてしまうほど、愛おしい気持ちでいっぱいになった。
優の友人たちは、アメの存在を知って驚きながらも、優がますます幸せそうになったことを喜んでくれた。「優ちゃん、本当にいい出会いだったね」「アメちゃん、うちの猫とも遊ばせてよ」と、アメは優の交友関係も広げてくれた。
ある日、優はいつものようにアメを抱き上げ、その柔らかな毛並みに頬を寄せた。「アメ、あなたに出会えて、本当に幸せだよ」
アメは、優の言葉に応えるように、喉をゴロゴロと鳴らした。その温かい振動は、優の心にじんわりと広がり、確かな幸福感で満たされた。
雨の日に出会った小さな命は、優にとってかけがえのない家族となった。アメの存在は、優の人生に温かい光を灯し、何気ない日常を幸せで満ち溢れたものに変えてくれたのだ。これからもずっと、優とアメは一緒に、穏やかで優しい時間を重ねていくことだろう。雨上がりの空にかかる虹のように、二人の未来は希望に満ちている。