空色の瞳と、スーツケースの約束
「ただいま、ソラ」
重たい革のトートバッグを床に置く音と、私の声。
それが、一日の終わりを告げる合図。ぱたぱたと軽い足音が近づいてきて、もふもふの白い塊が私の足にやわらかく体をこすりつける。
「にゃーん」
見上げてくる大きな空色の瞳。我が家の王様、ラグドールのソラだ。
今年で三歳になる、甘えん坊でのんびり屋な男の子。
彼を腕の中に抱きしめ、そのシルクのような毛並みに顔をうずめる瞬間が、高橋美咲、35歳、独身、広告代理店勤務の私にとって、最高のご褒美だった。
クライアントとの厳しい折衝も、深夜に及ぶ企画書の修正も、この子の温もり一つで、
すうっと溶けていく。ソラがいるから、私は明日も頑張れる。本気でそう思っていた。
そんな穏やかな日々に、一つの大きな転機が訪れたのは、ある春の日だった。
「高橋さん、例のパリの案件、リーダーとして行ってくれないか」
部長から告げられた言葉に、私は一瞬、息をのんだ。
入社してからずっと追いかけてきた、グローバルブランドの立ち上げプロジェクト。
その最前線に、私が。断る理由なんて、どこにもなかった。胸が高鳴り、武者震いがする。
やってやる。絶対に成功させてみせる。
けれど、喜びの絶頂から現実へと引き戻したのは、あまりにも些細で、そして何よりも大切なことだった。
「出張は、一週間……ですか」 「ああ、そうだ。頼んだぞ」
一週間。たった七日間。されど七日間。
その間、ソラはどうしたらいいのだろう。
私の頭の中は、パリの美しい街並みよりも先に、ぽつんと一匹で留守番するソラの姿でいっぱいになってしまった。
その夜、大きなスーツケースをクローゼットの奥から引っ張り出すと、ソラは興味津々にその周りをうろつき始めた。
私が蓋を開けると、待ってましたとばかりに中に飛び込み、香箱座りまで決めてみせる。
「もう、ソラ。そこはあなたのベッドじゃないのよ」
くすりと笑いながら喉を撫でてやると、ゴロゴロと満足そうな音を立てる。
その無邪気な姿に胸が締め付けられた。この子を置いて、私は遠い場所へ行かなければならない。
キャリアのための大きな一歩。それは分かっている。
でも、この小さな命を守れるのは、世界で私しかいないのだ。
「いい子にしてるんだよ」
言い聞かせるように呟いた言葉は、ほとんど自分自身に向けたものだった。
スーツケースの真ん中で丸くなるソラの背中を撫でながら、私はそっと、一週間の留守番をお願いすることになる、
信頼できるペットシッターさんの連絡先を押し始めた。
扉の向こうの小さな鼓動
出発の日が近づくにつれて、家の中は奇妙な光景を呈していった。
私の荷物は、着回しのきくシンプルなワンピースとジャケット、それに下着くらいなものなのに、ソラのための準備はどんどん増えていく。
「自動給餌器のタイマーは完璧。給水器も洗浄してフィルターを替えたし、トイレの砂も全とっかえ。お気に入りのおもちゃは……これと、これと、念のためにこれも」
まるで引越しでもするかのように、リビングの一角にソラグッズが山積みになっていく。
私がばたばたと動き回るのを、ソラは不思議そうな顔で、でもどこか不安げに見つめていた。
今回、ソラのお世話をお願いしたのは、動物好きの間では「神」とまで呼ばれているベテランのペットシッター、木下優子さんだ。
事前の打ち合わせで、彼女は私のメモだらけの「ソラ取扱説明書」に真剣に目を通し、「美咲さんの愛情が伝わってきます。大丈夫、ソラくんのことは私に任せて、お仕事に集中してくださいね」と、聖母のような微笑みで言ってくれた。その言葉にどれだけ救われたことか。
そして、出発の日の朝がやってきた。
夜明け前の薄明かりの中、荷造りの最終チェックをしていると、閉めようとしたスーツケースの上に、ソラがちょこんと乗ってきた。
「だーめ。ソラは入れません」
言いながら抱き上げようとすると、「うにゃ」と小さな声で抗議する。
まるで、「行っちゃやだ」と言っているみたいで、胸がぎゅっとなる。
「ごめんね。すぐ帰ってくるから。本当に、すぐだから」
何度も何度も言い聞かせ、最後にもう一度だけきつく抱きしめた。
いつもなら嫌がるのに、その日に限ってソラは腕の中でおとなしくしていた。
わかっているのかもしれない。今日、私がどこか遠くへ行ってしまうことを。
玄関でヒールのパンプスを履き、ドアノブに手をかける。
振り返ると、ソラが廊下の真ん中で、じっと私を見ていた。
揺れる空色の瞳が、ガラス玉みたいにきらきらと光っている。
行かないで、と訴えかけるその瞳に、私の決意はいともたやすく揺らぎそうになる。
「……行ってきます」
振り絞るような声で告げ、私は半ば無理やりドアを閉めた。
カチャリ、と無機質な鍵の音が響く。扉一枚を隔てた向こう側で、私の帰りを待つ小さな鼓動がある。
それを思うだけで、涙が滲んだ。
空港へ向かうタクシーの窓から流れていく景色は、どこか現実味を帯びていなかった。
私の心はまだ、あの部屋に、あの小さな生き物のそばに、置き去りにされたままだった。
パリの空と、一枚の写真
シャルル・ド・ゴール空港に降り立った瞬間、ひんやりとした空気が私の頬を撫でた。
歴史と芸術の香りがする美しい街。高揚感と共に、私は仕事モードへと意識を切り替えた。
プレゼンテーションは成功し、現地のスタッフとの会議も順調に進んだ。
プロフェッショナルとしての自分を演じている間は、寂しさを忘れることができた。
けれど、一日の仕事を終えてホテルの部屋に戻り、一人になると、途端にソラのことが頭をもたげる。
今頃、何してるかな。
ちゃんとご飯は食べてるかな。寂しがってないかな。
そんな私の唯一の心の支えは、シッターの優子さんから毎日送られてくるレポートメールだった。
『美咲様。本日のソラくんのご報告です。朝ご飯はカリカリを完食。お水もしっかり飲んでいます。窓辺で日向ぼっこをしながら、お外の鳥さんを眺めていましたよ。添付の写真は、お気に入りネズミさんで遊んでいるところです』
メールに添えられた写真には、おもちゃのネズミに夢中になっているソラの姿が写っていた。
元気そうだ。よかった。
写真の中のソラを指でなぞりながら、私は安堵のため息をついた。
優子さんからの温かい文章と、変わらないソラの日常の写真は、パリと東京の距離を少しだけ縮めてくれる、魔法のようだった。
出張も折り返しを過ぎた四日目の夜。
その日も、私はいつものように優子さんからの連絡を待っていた。
しかし、届いたメールの文面は、いつもと少し違っていた。
『ソラくん、今朝から少し食欲がないようです。元気がないわけではないのですが、ご飯を少し残してしまって。念のため、ウェットフードを少し温めてあげてみようと思います』
その一文を読んだ瞬間、私の心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。
食欲がない? あの食いしん坊のソラが?
大丈夫、優子さんがついている。
プロの彼女が、的確に対処してくれるはず。
頭ではそう分かっているのに、不安が黒い霧のように心を覆っていく。
もし、私がいない間に、ソラの具合がどんどん悪くなったら? もし、何か大変なことになったら……。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
翌日の重要な会議の内容も、まったく頭に入ってこない。
華やかなパリの街並みが、色褪せて見えた。私がこんな場所で成功を夢見ている間に、あの子は一人で苦しんでいるのかもしれない。
私が選んだこの道は、本当に正しかったのだろうか。
キャリアも大切だ。でも、ソラを犠牲にしてまで手に入れるべきものなのだろうか。
ぐるぐると巡る思考の中で、私はスマートフォンの待ち受け画面に設定した、あくびをしているソラの写真を見つめた。
その時、ポン、と軽やかな通知音が鳴った。
優子さんからだ。
恐る恐るメールを開くと、そこには一本の短い動画が添付されていた。
再生ボタンを押すと、画面の中で、ソラがちゅーるを夢中で舐めている姿が映し出された。
『ご心配をおかけしました! 温めたウェットフードもあまり食べなかったので、最終兵器のちゅーるをあげてみたら、この通りです(笑)。どうやら、ちょっとした環境の変化で寂しくなって、ストライキを起こしていたみたいですね。たくさん撫でて、遊んであげたら、すっかりご機嫌になりましたよ』
動画の中のソラは、これ以上ないほど幸せそうな顔をしていた。
その姿を見て、張り詰めていたものが一気に決壊し、私の目からは大粒の涙が溢れ落ちた。
よかった。本当によかった。
同時に、深い感謝の気持ちが湧き上がってきた。
優子さんのきめ細やかな愛情がなければ、ソラは元気をなくしたままだったかもしれない。
そして、こんな風に離れた場所からでも、ソラの様子を伝えてくれる人がいる。
私は一人じゃない。私の大切な家族は、たくさんの優しさに支えられて、守られているんだ。
涙で濡れた頬のまま、私は窓の外に広がるパリの夜景を見つめた。
エッフェル塔のシャンパンフラッシュが、星屑のようにきらめいている。
このプロジェクトを、必ず成功させよう。そして、胸を張って日本に帰ろう。
私を信じて送り出してくれた人たちのためにも。そして何より、扉の向こう側で、私の帰りを待っている、世界で一番大切な家族のもとへ。
私は、自分の足でしっかりと立って、愛するものを守れる自分になりたい。
そのために、今、ここにいるのだから。
ただいまのハグと、未来への滑走路
最終日、プロジェクトの成功を祝う会食を終え、私は空港へと向かっていた。
手にしたスマートフォンには、優子さんからの最後のレポートが届いていた。
『いよいよお帰りなさいですね。ソラくん、なんだかそわそわしています。美咲さんの足音が、もう聞こえているのかもしれませんね』
そのメッセージに、自然と笑みがこぼれる。
私の手元には、仕事用の書類の他に、小さな紙袋が一つ増えていた。
シャンゼリゼ通りで見つけた、エッフェル塔の飾りがついた、猫じゃらし。ソラへのお土産だ。
長いフライトを終え、日本の地を踏んだ時、これまでにないほどの達成感と、愛しい我が家への渇望が私を包んだ。
スーツケースを引きながら、逸る心を抑えてマンションのエントランスを抜ける。
エレベーターが目的の階に到着するまでの時間すら、もどかしい。
そして、ついに、我が家の玄関ドアの前に立った。
深呼吸を一つして、鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
「ただいま」
小さな声で呟きながらドアを開けた、その瞬間だった。
「にゃーーーーーーっ!」
今まで聞いたこともないような、長くて、甘えた声。
白い弾丸のようなソラが、廊下の奥から猛スピードで駆け寄ってくる。
私は、重たいスーツケースが手から滑り落ちるのも構わずに、その場にしゃがみこんだ。
腕の中に飛び込んできた、温かくて、やわらかい塊。
ゴロゴロという喉の音が、まるでモーターのように大きく響いている。
私はその体を強く、強く抱きしめた。
「ソラ……!会いたかった……!本当に、会いたかったよぉ……!」
頬にスリスリと顔をこすりつけてくるソラの毛は、涙と鼻水でぐしょぐしょになってしまったけれど、そんなことはどうでもよかった。
一週間分の寂しさと、愛しさが、一気に込み上げてくる。
ソラも同じ気持ちだったのだろう。私の腕の中で、何度も何度も、愛おしそうに鳴き続けた。
しばらくの間、私たちは玄関でそうしていた。
まるで、離れていた時間を取り戻すかのように。
ようやく立ち上がってリビングに入ると、部屋は完璧に片付いていて、テーブルの上には優子さんからの置き手紙と、一枚の写真が立てかけてあった。
写真には、窓辺でちょこんと座り、外を眺めるソラの後ろ姿が写っている。
まるで、私の帰りをずっと待っていたかのような、健気な背中。
手紙には、留守番中のソラの様子が細やかに綴られ、最後はこう締めくくられていた。
『ソラくん、本当によく頑張りました。そして美咲さんも、お仕事お疲れ様でした。素敵なご家族の、ささやかなお手伝いができたこと、心から嬉しく思います』
温かい言葉に、また涙が滲む。
パリでの一週間は、私に多くのものをもたらしてくれた。
仕事での成功と自信。
そして、離れてみて初めてわかった、ソラという存在の大きさ。
私が彼を守っているつもりでいたけれど、本当は、この子の存在そのものが、私を支え、強くしてくれていたのだ。
新しい猫じゃらしを振ると、ソラはブランクなど感じさせない華麗なジャンプを見せてくれた。
その姿を見ながら、私は思う。
これからも、きっと出張はあるだろう。
家を空けなければならない夜もあるかもしれない。
そのたびに、私は寂しさを感じ、後ろ髪を引かれるだろう。
でも、もう大丈夫。
私には、信じて頼れる人がいる。
そして何より、この扉の向こう側には、どんな時も変わらない愛情で私を待っていてくれる、かけがえのない家族がいるのだから。
キャリアを諦める必要なんてない。
愛する存在との時間を、犠牲にする必要もない。両方を大切に抱きしめて、私は私の滑走路を、これからもまっすぐに飛んでいく。
窓の外では、東京の夜景が輝き始めていた。
腕の中の温かな鼓動を感じながら、私は晴れやかな気持ちで、新しい朝の訪れを待っていた。