吾輩はビスケ。ご主人様は美咲。
吾輩は猫である。名前はビスケ。
オス、推定5歳。由緒正しき元・野良だ。
今は、この城の主である「美咲」に仕える、誇り高きイエネコとして暮らしている。
ご主人様である美咲は、35歳、独身。
人間でいうところの「崖っぷち」というやつらしいが、吾輩にはよく分からん。
ただ、彼女がこの城(1LDKのマンションだが、吾輩にとっては広大な領土だ)で一番偉いこと、そして、世界で一番美味しいカリカリをくれる存在であることだけは確かだ。
美咲は「在宅ワーカー」という仕事をしているらしく、日中のほとんどを吾輩と共に過ごす。
これは非常に都合がいい。
なぜなら、お腹が空いたタイミングで「にゃーん(訳:おい、飯)」と要求すれば、すぐに出てくるからだ。
「はいはい、ビスケくん。もうちょっと待ってね。今、大事なところだから」
美咲はそう言って、光る板(彼女はこれをマックブックと呼ぶ)に向かって指をカタカタと動かしている。
吾輩は、そのキーボードの上に乗るのが好きだ。温かいし、何より、美咲の注意を確実に引くことができる。
『fsdfjkl;afjkl;dsaf』
吾輩が華麗なステップで打ち込んだ文字列に、美咲は「こら、ビスケ!」と言いながらも、その声は笑っている。
分かっているのだ、美咲も。
吾輩がいないと、仕事なんて捗らないということを。
なにせ、この家で一番可愛い存在が、こうして構ってやっているのだから。
吾輩の一日は、美咲の目覚めと共に始まる。
朝、顔の横で喉を鳴らしてやると、美咲は「んー、ビスケ、おはよ…」と寝ぼけ眼で吾輩の頭を撫でる。
この瞬間は悪くない。
存分に撫でさせた後、すっくと立ち上がり、餌皿の前まで案内してやるのが吾輩の朝の仕事だ。
日中は、窓辺の一番日当たりの良い場所で惰眠を貪るのが日課。
時折、美咲が「ビスケー、可愛いねぇ」と言いながら、スマホという四角い機械を向けてくる。
これも、ご主人様の機嫌を取るための公務だと思って、あえて最高のフォルムを見せつけてやる。
丸くなったり、ヘソ天になったり。サービス精神も、イエネコには必要不可欠なスキルなのだ。
夜、美咲が仕事を終えると、ようやく吾輩のための時間がやってくる。
猫じゃらしの時間だ。
獲物(ただの鳥の羽だが)を追いかけるふりをして、美咲の運動不足解消に付き合ってやる。
本当は、あんな単純な動き、一瞬で捕らえることなど造作もないのだが、そこは手加減してやるのが優しさというものだろう。
「はー、疲れた。ビスケは元気だねぇ」
ソファに寝転ぶ美咲のお腹の上に乗ってやると、彼女は満足そうに吾輩を撫でる。
ゴロゴロと喉を鳴らしてやる。
この音は、美咲を安心させる魔法の音だ。吾輩がご機嫌でいること。
それが、この城の平和の証なのだから。
そう、吾輩と美咲の毎日は、完璧な調和の上に成り立っていた。
少なくとも、あの忌々しい「青い封筒」が届くまでは。
ご主人様の異変と、忌々しき青い封筒
異変は、ある晴れた日の午後にやってきた。
郵便受けにカタン、と軽い音がして、美咲が取りに行った手には、一通の青い封筒があった。
キラキラとした、安っぽい装飾が施されている。
「わ、すごい。ついに、由香も結婚かぁ…」
美咲の声は、いつもより少しだけ低かった。
封筒を眺めるその横顔は、いつものように輝いてはいなかった。
吾輩は、こういう些細な変化に敏感だ。
なぜなら、ご主人様の機嫌は、吾輩の生活の質に直結するからである。
その日から、美咲は少しずつおかしくなった。
まず、カリカリをくれる時間が不規則になった。
これは由々しき事態だ。
吾輩の腹時計は、寸分の狂いもなく時を刻んでいるというのに。
次に、光る板に向かう時間が長くなった。
眉間に深いシワを寄せ、「うーん」とか「あー」とか、意味不明な呻き声を上げている。
どうやら、大きな仕事を任されたらしい。
「コンペ」とかいう、人間界の縄張り争いのようなものだと吾輩は解釈した。
そして何より、夜の猫じゃらしタイムが短縮、あるいは中止されるようになったのだ。
これは断じて許しがたい。
吾輩のストレスが溜まるだけでなく、美咲自身の健康にも良くないではないか。
「ごめんね、ビスケ。今、ちょっとそれどころじゃなくて…」
力なく謝る美咲の足元にすり寄ってみても、返ってくるのは乾いた撫で方だけ。
その手からは、いつものような「大好き」の波動が感じられなかった。
ある夜、美咲は電話をしていた。
相手は、おそらく彼女の母親だろう。
「うん、大丈夫だよ。仕事も順調だし…え? 結婚? うーん、まあ、ねぇ…。由香の結婚式、嬉しいけど、ちょっと複雑かな、なんて…。うん、分かってる。大丈夫だって」
大丈夫、と繰り返す声ほど、大丈夫じゃない響きを持つものはない。
電話を切った後、美咲は大きなため息をついて、ソファに深く沈み込んだ。
その姿は、まるで雨に濡れた段ボールのようだった。
吾輩は、そっと彼女の膝に乗った。
こういう時、どうすればいいのかは知っている。
ただ、静かにそこにいて、体温を分けてやればいい。
そして、最高のゴロゴロ音を奏でるのだ。
「…ビスケ」
美咲は、吾輩の背中に顔をうずめた。少しだけ、湿っていた。
「あんたはいいねぇ。毎日寝て、食べて、遊んで。悩みなんてないでしょ」
失敬な。吾輩にだって悩みくらいある。
今日のカリカリの銘柄は何かとか、あのカラスはいつか懲らしめてやらねばとか、そういう高尚な悩み事が。
しかし、今は反論の時ではない。
吾輩はただ、美咲の涙の塩味を、毛皮で受け止めてやることに専念した。
人間とは、実に面倒な生き物だ。
幸せそうな誰かを見て、自分の幸せが分からなくなるなんて。
吾輩の世界では、隣の猫がちゅ〜るをもらっていたら、次は自分の番だと期待するだけなのに。
この城の平和が、少しずつ、しかし確実に、音を立てて崩れていくのを感じていた。
城の崩壊と、吾輩の決意
決定的な日が来た。例の「コンペ」とやらの結果が出た日だ。
美咲は、光る板の前で、石のように固まっていた。
そして、ゆっくりと顔を覆った。肩が小さく震えている。
吾輩は、その様子をソファの影からじっと見ていた。
これは、いつもの「ちょっとした落ち込み」とはレベルが違う。
城が、今まさに崩壊しようとしている。
その夜、美咲は夕飯を食べなかった。
もちろん、吾輩のカリカリも出てこなかった。
これは、この城ができて以来の、非常事態宣言に値する。
「にゃーん!にゃあああん!(訳:おい、飯だ!盟約を忘れたのか!)」
ベッドに潜り込んだまま出てこない美咲の部屋のドアを、前足でガリガリと引っ掻きながら抗議する。
しかし、返事はない。
ただ、くぐもった嗚咽のようなものが聞こえるだけだった。
空腹は、吾輩の理性を麻痺させる。
しかし、それ以上に、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。
静まり返った部屋。
いつも聞こえるキーボードの音も、鼻歌も、テレビの音も何もしない。
ただ、ご主人様の悲しみの気配だけが、濃密に部屋を満たしている。
腹が減った。
でも、それだけじゃない。 つまらない。
静かなのは、嫌いだ。 美咲が笑っていないのは、もっと嫌いだ。
吾輩は、決意した。
この城の平和は、吾輩が守る。
ご主人様は、吾輩が元気づける。
何より、そうしないと、明日からの極上カリカリライフが危ういのだ。
まず、吾輩は一番大事にしているネズミのおもちゃ(しっぽが取れかかっている)を咥え、ベッドまで運んだ。
そして、美咲の枕元に、そっと置いた。
これは、吾輩からの最高の貢ぎ物だ。
これをやれば、大概の人間は喜ぶと聞いている。
しかし、美咲は反応しない。
ならば、次の手だ。
吾輩は美咲の顔の横に陣取り、これまで出したことのないような、最大ボリュームのゴロゴロ音を響かせた。
エンジン音にも匹敵する、魂のゴロゴロだ。
「…うるさいよ、ビスケ…」
か細い声が返ってきた。だが、これは脈ありだ。
吾輩はさらに続けた。
美咲の濡れた頬を、ザラザラの舌でぺろぺろと舐めてやった。しょっぱい味がした。
「やめてよ…」
美咲はそう言いながらも、吾輩を振り払おうとはしなかった。
吾輩は、ただひたすら、そこにいた。
美咲の涙を舐め、喉を鳴らし、温かい体で寄り添い続けた。
言葉なんていらない。
お前が悲しい時、吾輩はここにいる。
お前がいないと、吾輩は腹を空かせるし、退屈で死んでしまうのだ。
だから、早く元気になれ。
どれくらいの時間が経っただろう。美咲が、ゆっくりと身を起こした。
そして、赤くなった目で、吾輩をじっと見つめた。
「…ビスケ」
その声は、まだ震えていた。
「…そっか。…そうだよね」
何が「そっか」なのか、吾輩には分からない。で
も、美咲の目に、ほんの少しだけ、光が戻った気がした。
「お腹、空いたよね。ごめんね」
美咲はベッドから降りると、ふらつきながらもキッチンへ向かった。
そして、カリ、カリカリ、と、世界で一番美しい音が、餌皿に響き渡った。
吾輩は、無心で食べた。
今日のカリカリは、涙の味がして、いつもより少しだけしょっぱかった。
でも、今までで一番、美味しかった。
食べ終わった吾輩を、美咲は力強く抱きしめた。
「ありがとう、ビスケ。あんたがいてくれて、よかった」
その腕の中で、吾輩は思った。
まあ、たまには、こうしてご主人様の世話を焼いてやるのも、悪くない。
何せ、吾輩は、この城を守る、誇り高きイエネコなのだから。
新しい朝と、ご主人様の笑顔
あの日を境に、美咲は少しだけ強くなった。
もちろん、仕事で負けた事実は変わらない。
友人の結婚を素直に喜べない気持ちが、すぐになくなったわけでもないだろう。
でも、彼女は前を向いた。
「よし、見てなさいよ! 次は絶対に勝つんだから!」
そう言って光る板に向かう横顔は、以前よりもずっと頼もしく見えた。
吾輩は、そんな彼女の足元で丸くなりながら、静かにエールを送る。
驚いたことに、美咲はあの日、吾輩がベッドに運んだネズミのおもちゃを、丁寧に補修してくれた。
取れかかっていたしっぽは、綺麗な赤い糸で縫い付けられていた。
「これは、ビスケのお守りだからね」
そう言って渡されたおもちゃは、前よりもっと、特別な宝物になった。
数週間後、美咲は「ちょっと気分転換してくる!」と言って、お洒落をして出かけて行った。
行き先は、あの青い封筒の結婚式だ。前とは違う、晴れやかな顔だった。
帰ってきた美咲は、とてもご機嫌だった。
「ビスケ、ただいま! すごく良かったよ、由香のドレス姿。私も、いつか…なんてね!」
そう言って笑う彼女からは、もう雨の匂いはしなかった。
代わりに、陽だまりのような、温かい匂いがした。
吾輩の日常も、完全に元に戻った。
いや、前よりもっと快適になったかもしれない。
カリカリは時間通りに出てくるし、猫じゃらしタイムはより情熱的になった。
美咲の撫で方には、深い感謝と愛情がこもっているのが分かる。実に結構なことだ。
ある日の午後。いつものように窓辺で日向ぼっこをしていると、美咲が隣に座って、吾輩と同じように外を眺めた。
「ねえ、ビスケ。私、あんたがいてくれて本当に良かった。あんたが言葉を話せたら、なんて言うのかな」
ふん、愚問だな。
もし吾輩が話せたら、言ってやりたいことは山ほどある。
「もっと上質なカリカリをよこせ」とか、「その安っぽい猫じゃらしではなく、本物の鳥の羽にしろ」とか、「吾輩の睡眠を妨げるな」とか。
でも、多分、一番最初に言う言葉は、決まっている。
「腹が減った」でもなく、「撫でろ」でもなく。
きっと、こう言うだろう。
「まあ、お前が元気なのが一番だ。ご主人様が幸せじゃないと、極上のカリカリも美味しくないからにゃ」と。
もちろん、そんなことはおくびにも出さずに、吾輩はただ「にゃあ」とだけ鳴いてやった。
それで十分伝わるはずだ。
吾輩と美咲の間には、言葉なんて必要ないのだから。
窓から差し込む光が、キラキラと舞っている。
新しい一日が、また始まる。
この平和な城で、食いしん坊で誇り高き吾輩と、ちょっと不器用だけど優しいご主人様の、温かい毎日が。