静寂を破る小さな予感
都心にありながら、どこか懐かしい匂いのするアパートメントで一人暮らしをする私、相田美咲(あいだみさき)、32歳。
フリーランスのウェブデザイナーとして、自宅で仕事をする毎日だ。相棒は、
3年前に保護猫シェルターから引き取った黒猫の「ヨル」。名付け親は私。
その名の通り、夜になると目がらんらんと輝き、昼間とは違う一面を見せる、ミステリアスな魅力の持ち主だ。
「ヨル、そろそろ店じまいにするよー」。
時刻は午後11時。ノートパソコンを閉じ、大きく伸びをすると、足元で丸くなっていたヨルが「ニャア」と小さな声で返事をする。
艶やかな黒い毛並みを撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らし、私の手にスリスリと甘えてくる。
この瞬間が、一日の疲れを癒してくれる至福の時。
「今日は早めに寝ようかな。最近、ちょっと寝不足気味だし」。
そう呟きながら、ヨルのために新しい水を用意し、寝室へと向かう。
ベッドに入り、心地よい眠りに誘われようとした、その時だった。
かすかに聞こえる、床を引っ掻くような音。そして、何かが小さく跳ねるような音。
(……気のせい、かな?)
眠気に抗えず、私は再び目を閉じる。しかし、その静寂は、ほんの束の間のものだった。
真夜中の大運動会と、寝不足な私
「ドタタタタタッ! シャーーッ! ゴンッ!!」
突然の轟音に、私はベッドから飛び起きた。「な、何事っ!?」
寝ぼけ眼をこすりながらリビングへ向かうと、そこには信じられない光景が広がっていた。
ヨルが、まるで何かに取り憑かれたかのように、部屋中を猛スピードで駆け回っているのだ。
カーテンに飛びつき、一瞬で天井近くまで駆け上がったかと思えば、次の瞬間には床を滑るように走り、ソファの背もたれをトランポリンのように使って大ジャンプ。
時折、「ニャオオオォォン!」「クルルルル……」と、普段は聞かないような奇妙な声を上げている。
「ちょ、ヨル!? どうしたのよ、一体!」
私の声などまるで耳に入っていないかのように、ヨルは小さな毛玉のおもちゃを口に咥え、それを放り投げては追いかけ、一人(一匹?)プロレスでもしているかのような激しい動きを繰り返している。その姿は、昼間の甘えん坊なヨルとはまるで別人……いや、別猫だ。
これが、週に数回、真夜中に繰り広げられるヨルの「大運動会」。
最初は「夜行性だから仕方ないか」と軽く考えていたが、その激しさと騒音は私の想像を遥かに超えていた。
おかげで、私の睡眠時間は削られ、目の下にはうっすらとクマが居座るようになってしまった。
ある時は、私が大切にしていた小さなガラスの置物を倒しそうになったり(間一髪でキャッチ!)、またある時は、仕事で使う重要な書類の上にダイブしてきたり(冷や汗ものだった)。
それでも、ヨルのそのエネルギッシュすぎる姿を見ていると、怒る気も失せてしまうから不思議だ。
むしろ、その真剣な眼差しや、しなやかな跳躍、そして時折見せるドジな一面(壁に軽くぶつかったり、着地に失敗してコテンと転がったり)に、思わずクスッと笑ってしまうことさえある。
「はぁ……元気なのはいいけど、もう少し静かにできないもんかねぇ」。
運動会が一段落し、ハアハアと息を切らしながら私の足元にすり寄ってくるヨルを抱き上げると、満足そうな顔でゴロゴロと喉を鳴らす。
その温かさと柔らかな毛の感触に、寝不足のイライラも少しだけ和らぐのだった。
「もう、しょうがない子なんだから」。そう言いながら頭を撫でると、ヨルは私の顎に自分の頭をこすりつけてくる。この甘え上手め。
近所の猫友達(同じく猫を飼っている30代の友人だ)にこの話をすると、「わかるー!うちの子も夜中に突然スイッチ入るよ!」「猫あるあるだよねー!」と大盛り上がり。
どうやら、これは猫飼いの共通の悩みのようだ。
「でも、その姿がまた可愛かったりするんだよね」という友人の言葉に、私は激しく頷いた。
そう、困ってはいるけれど、心のどこかでは、この予測不能な小さな同居人の行動を、愛おしく思っているのだ。
いつもと違う夜、小さな発見
いつものように、真夜中の運動会が始まった。
しかし、その夜のヨルは、いつもと少し様子が違った。ただ走り回るだけでなく、何かを探しているかのように、部屋の隅々をクンクンと嗅ぎ回り、時折、一点をじっと見つめては「ウニャ?」と不思議そうな声を出すのだ。
(何か気になるものでもあるのかな?)
眠い目をこすりながらも、私はヨルの行動をそっと見守ることにした。
まるで探偵のように部屋を探索するヨルの姿は、どこかコミカルで、そして真剣だった。
しばらくすると、ヨルがソファの下に頭を突っ込み、何かを引っ張り出そうと奮闘し始めた。
「フンフンッ!ニャー!」と小さな唸り声を上げながら、前足で懸命に何かを掻き出そうとしている。
「何してるの、ヨル?」
私が声をかけると、ヨルは顔を上げ、口に何か小さなものを咥えていた。
そして、トコトコと私の元へ歩み寄り、まるで「見つけたよ!」とでも言うかのように、私の手のひらの上にそれをポトリと落とした。
それは、私が数年前に失くしたと思っていた、小さな星の形をしたピアスの片方だった。
仕事で大きなプロジェクトを終えた記念に、自分へのご褒美として買った、お気に入りのピアス。
片方だけになってしまってからは、引き出しの奥にしまい込み、いつしかその存在すら忘れかけていた。
「これ……どうしてヨルが?」
驚きと懐かしさで胸がいっぱいになる。
ヨルは、まるで私の気持ちを察したかのように、私の膝にそっと前足を乗せ、じっと私の顔を見上げてきた。
その深い緑色の瞳は、いつものいたずらっぽい輝きではなく、どこか優しげな光を湛えているように見えた。
もしかしたら、ヨルはただのおもちゃ探しをしていただけなのかもしれない。
でも、私には、ヨルがこの小さな星を見つけ出し、私に届けようとしてくれたように思えてならなかった。
まるで、忘れていた小さな幸せを、もう一度思い出させてくれるために。
その夜の運動会は、いつもより少しだけ静かに、そして早く終わった。
ヨルは私の隣に寄り添って眠りにつき、私は失くしたと思っていたピアスの片割れを握りしめながら、温かい気持ちで満たされていくのを感じていた。
愛しき毛玉との、かけがえのない日々
あの日以来、ヨルの夜中の運動会が完全になくなったわけではない。
相変わらず、突然スイッチが入っては部屋中を駆け回り、私を寝不足にさせることもある。でも、私の心持ちは少し変わった。
ヨルの予測不能な行動の一つ一つが、何か意味を持っているのかもしれない。
あるいは、ただの気まぐれだとしても、その全力で「今」を生きる姿は、私に元気を与えてくれる。
そして何より、この小さな黒猫が、私の日常にかけがえのない彩りを与えてくれていることは紛れもない事実だ。
失くしたと思っていたピアスは、もう片方も見つかることはなかったけれど、ヨルが見つけてくれた星のピアスは、今では私のお守りのような存在になっている。
時々それを眺めては、あの夜のヨルの真剣な眼差しと、小さな奇跡を思い出す。
「ヨル、いつもありがとうね」。
そう声をかけると、ヨルは大きなあくびをして、「ニャァ」と返事をする。
その姿は、相変わらずマイペースで、自由気ままだ。
寝不足の日々は続くかもしれない。
でも、それは決して不幸なことではない。
むしろ、この愛しき毛玉との騒がしくも温かい毎日が、私にとっては何物にも代えがたい宝物なのだ。
今日もまた、時計の針が真夜中を指そうとしている。
リビングからは、かすかにヨルがそわそわと動き出す気配が伝わってくる。
(さて、今夜はどんな運動会を見せてくれるのかな?)
私はクスッと笑みを浮かべ、優しい気持ちでその小さな足音に耳を澄ませるのだった。
この賑やかで、ちょっぴり不思議な同居人との日々は、これからもきっと、たくさんの小さな驚きと、大きな愛情で満たされていくのだろう。
そんな未来を思うと、自然と心が温かくなるのだった。